林のたぬきさん 1
「たぬき・むじな事件」いまvあかされる、もう一つの物語
宮爺さんの昔ばなし
道東の雪がとけ、牧草地が狸黄色#f01 に染まるころ。 三月三日の桃の節句は、とある狸の命日です。
ぽんこ
たぬきみじめじけんってなんでしゅか?
宮爺
ぬん?……たぬき・むじな事件じゃろ?
ぽんこ
そうともいいましゅ……
宮爺
……あれはな、今は昔のお話なんじゃよ
ぽんこ
きかせてくだしゃい!
宮爺さんはまだ雪の残る熊笹を見上げて言ったとな……
桃の花
今はたぬき、大正13年の2月の末の桃の頃、 たぬき・むじな事件とは栃木県で起こった痛ましい事件のことじゃぬ。#f02 当時、政界に復帰しつつあった狸たちは「狩猟法」の全面改正を勝ち取り、 狸権回復に一歩前進したその喜びは大変なものじゃったそうな。#f03
岩本夫妻もそんな浮かれた二狸だそうで、#f04 その年も2月28日が終わるのを今か今かと待ちわびた。
とうとう夜の12時が過ぎて、夫婦は喜びのあまり村を駆け回ると、
夫
今日から猟師に怯える必要はないんだぬ!
妻
あなた見て、桃の花がもうこんなに
夫
3月3日の桃の節句には一緒にお祝いをしよう♪
月がのぼり、日がのぼり、はしゃぎまわった岩本夫婦は気持ちよく、温かい春の日差しに昼寝していた。 まさにその時、唐突に落雷の様な衝撃が空気を切り裂いた!
銃声!?……二狸は飛び起きた!
慌てて近くの岩穴に逃げ込むと、猟師の足が穴の外にチラついた。
夫
猟師さん!ひどいじゃないか!狩猟法を知らないのかい?三月からは禁猟だぞ!
猟師
なにか勘違いしていないか?今年は1924年なんだ
夫
え?
妻
……あっ!……うるう年!
猟師
今日は2月29日、まだ猟期なのさ。
と猟師は言ってみたものの、狭い岩穴、下手に首を突っ込もうものなら狸に噛まれかねない。既に日も暮れてきた。猟師は岩穴の入り口を木の枝やらでぎゅうぎゅうに塞いで二狸を閉じ込め、家に帰ってしまった。
妻
あなた、どうしましょう?
夫
心配するな、このまま1日やり過ごそう。明日こそは3月1日で禁猟期間だ。
妻
1日どころか何日だって大丈夫ですよ、冬の間は何か月も穴でジッとしているんですから。
夫
あぁ!人間の都合で負けを認めるわけにはいかない!簡単に捕まってなるものか!
妻
あの猟師をやり過ごしたら桃の花見をしましょうね
夫
そいつは良い考えだ。3月3日が楽しみになってきたぬ。
夫婦は1日をやり過ごし、念のため2日目もジッと過ごした。3日目の朝になると、穴の外がなんだか賑やかだから、穴の隙間を覗いてみると桃の花がキラキラと輝いていた。あぁ、きっと桃の花見に近所の狸たちも出てるんだな、おーい!ぼらくも行くよ……と、穴から顔を出した、その直後だった。
ズダーーーン!
妻
あぁ!あんたぁ!?
物凄い音と共に夫は後ろへ吹き飛んだ。夫は自分の足がどうなっているかも気が付かないまま、目をぱちくりさせて抗議した。
夫
な、なんだってんだ、今日はもう3月3日の桃の節句……
妻
あんたぁ!……猟師さん、酷いじゃないか、狩猟法では禁猟期間に狸を撃っちゃダメだって!
猟犬が穴の外でガウガウ吠えたてている。 猟師は穴をふさいでいた木の枝などを引き払うと弾を込めながら言い放った。
猟師
狸ぃ?あんたら、ムジナじゃけ、撃ったども、何も悪いこたね
妻は夫にしっかり寄り添って、夫も遠のく意識の中で妻を抱き、暗く閉じ行く視界の果てに、キラキラ、キラキラ輝きながら、手の届かないくらい遠退いた桃の花を、何時までも何時までも二狸は一緒に見届ける……
ズダーーーーン! もう一発、ひときわ大きく村田銃が岩穴に響き渡った。
無主物先占
この事件は、猟師を被告として直ちに裁判にかけられた。
猟師の弁護人は事実の錯誤を主張した。確かに狩猟法は狢の禁猟期間を定めていない。被告は狢と狸を別物と信じていた主張する。しかし明治期ならいざ知らず、大正時代には既に人間に化けた狸たち多数が裁判官や検察官にも混ざっていた。簡単には人間にばかり有利な判決は下されない……たとえ狢と狸が別物と主張しようと両者は同じゆえに狩猟法違反……こうして第一審は有罪判決が下された。
続く控訴審においては弁護人は岩穴に閉じ込めた時点で捕獲行為は完了しており、その日はまだ狩猟期間なので無罪であると主張する。しかし判事の方も却々の狸親父と見えて全く譲らない……その穴っていうのは獣が本来生息する自然の場所であり閉じ込めたからと言って狸にとっては日常の事、真に捕獲したのは3月3日ゆえに狩猟法違反……控訴審も被告を有罪と判決した。
裁判は遂に大審院(いまでいう最高裁)まで縺れ込んだ。この時の裁判長はそれはもう大変に立派な方で、人も狸も平等に仲間と考えているのか、人間からも狸からも尊敬されている御仁だった。だから狸たちはこれもまた有罪判決だろうと確信していた。
ところが裁判長は次のように判決を下したのである……無主物である狸を岩穴に閉じ込め事実上の支配力を獲得したのは猟師であり、2月29日の時点を以て先占したるものにして、狩猟法違反にはあたらない……よって無罪である。#f05
法廷は大いにざわついた。裁判長は義理と人情を引き裂かれ、仲間を守れなかった懺悔の思いから木槌で己の金玉を打ち据えた。#f06 ガンッガンッと響き渡るその音に、男たちは固唾を呑んで静まり返った。裁判長の目から落ちる涙は悔し涙か、後悔からか……
このような記事が狸新聞の号外に載ったとか。後に、この事件は「たぬき・むじな・木槌事件」と呼ばれ、法曹界を目指すたぬきたちは必ず教科書で学び知らぬものはなかりけりとたぬ、語り伝えたぬとや。
メモ
- 狸黄色
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雪解けの汚い茶色。タヌキにとっては保護色となる。造語。
- たぬき・むじな事件
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実際に大正13年2月末に発生した事件である。 「事実の錯誤」に関する判例として有名だが、 夏井高人(2012)「狸狢事件判決再考」『法律論叢』85, pp.327-385 は
ところが、施行規則一条により、哺乳類に属する動物中でアマミノクロウサギ(Pentalagus furnessi (Stone, 1900))以外の全ての動物が狩猟鳥獣と定められており、かつ、施行規則二条二項により、「猯(アナグマ)」など10種の狩猟制限獣のみについて狩猟期間が定められていることから、(中略)アマミノクロウサギ(Pentalagus furnessi (Stone, 1900))及び狩猟制限獣以外の獣については、年間を通じて常に捕獲可能である。
と述べ、
したがって、アマミノクロウサギ(Pentalagus furnessi (Stone, 1900))ではないことが明らかである本件十文字狢の捕獲行為については、それが狩猟制限獣であると否とを問わず、常に無罪であることになる。
と論ずる。つまり確定した事実関係を前提とする限り、被告が事実をどのように錯誤しようとも、 そのことで有罪とはなりえないのだろう。 そうしてみると「たぬき・むじな事件」とは「事実の錯誤」に関する判例としてよりも、 「無主物先占」に関する判例としてこそ有名であるべきと思われる、しらんけど。
- 狩猟法
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明治6年の「鳥獣猟規則」の時点では全ての鳥獣が狩猟対象だったらしい。
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その後の法改正では明治25年「狩猟規則」『官報』2784号 や 明治28年「狩猟法」『官報』3519号 などに 捕獲禁止の枠が設定が認められるも、まだ狸権は回復していないようだ。
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一大転機は大正7年「狩猟法」『官報』1698号 で、 その施行規則大正8年「狩猟法施行規則」『官報』2110号 にて
左ノ獣類ノ狩猟期間ハ12月1日ヨリ翌年2月末日迄トス
猯 鼬 獺 羚羊 狐 鹿 狸 貂 鼯鼠 栗鼠
として、はじめて「狸」の1文字が確認でき、狩猟期間も当初の10月15日~4月15日と比べ短縮された。 時代は「大正デモクラシー」、人々に化けた狸たちが如何に狸権回復に努めたか、 その苦労を偲ぶ時、袂を絞らぬ者はなく、 狩猟法を勝ち取った際の喜びようといえば全く想像に難くない。
- 狸の助数詞
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たぬきは1狸、2狸と数えるが、その読み方は独特であり、しばしば狸語初学者を困惑させる。 以下に5までの読み方を紹介する。
- ひとぬ
- ふたぬ
- さんぬん
- よぬん
- ごぬん
「一狸」「二狸」という読み方は「ひとたぬ」「ふたたぬ」からの変化と考えられる。 「人を数える語」の「人」という古語は「狸」に同源という説もあるとか、ないとか。
- 無主物
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「所有者の無い動産」のこと。 所有の意思をもって占有することにより所有権を取得でき、これを無主物先占という。 残念ながら野生の狸は無主物とみなされ、狸権回復は未だ不十分と言わざるを得ない。
- 木槌
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アメリカの議会や法廷で用いられる。サウンドブロックに打ち付けて音を鳴らす。 ところが日本の法廷では使われず、この点からも記事は後年の創作と思われる。