カンナビ 2
大神神社から三輪山の山頂が見えるわけではない。
三輪山にはいくつもの謎がある
大物主の伝説が海外にも見出せるとか、 神武と崇神の婚姻関係に対応が見出せるとか、 元伊勢の最初が檜原神社である意味は何かとか、 三輪山周辺にはたくさんの謎とロマンがあふれている。 九州から大和への地名移植説ひとつとっても、三輪とは何ぞやと、 この話を酒の肴に同好の士ならば一晩中呑みあかせる自信がある。
しかし今回は、もっと地味な、GIS的かつ地学的な謎に注目したい。 簡潔に言うと問題は以下の3つである。
- 大神神社から三輪山山頂は見えないのにそれを拝んでいたのか?
- 檜原神社から三輪山山頂は冬至の日の出方向に無いのにそれを拝んでいたのか?
- 両社から三輪山に向かって伸びる磐座群はなぜ冬至の日の出・日の入方向に凡そ分布するのか?
そもそもこういった問題意識を懐かないの普通だと思う。 だから順番に説明しようとおもう。
大神神社から御神体の三輪山を遥拝するというが
最古の神社の一つと言われる大神神社には本殿が無いのは有名だ。 それは正面の三輪山こそが御神体であり、社殿はあくまでも拝殿であり、 山体を遥かに拝む、すなわち遥拝する場所だから、という。
そして拝殿の裏手には有名な三ツ鳥居があり、見学させてもらうと判るが それは人が潜るようなものではない。想像をたくましくすれば門であろうか。 同じものが直ぐ近くの檜原神社にもあるので、写真を撮りたい方はそちらへどうぞ。
さて、問題はここからだ。大神神社から山頂が見えるのかというと、実は見えないのだ。 木が生い茂っているというのも理由の一つだが、 そもそも見通し線が山頂に達していないのである。 冒頭の図がそれで、大神神社から三輪山方向の断面図である。 カシミール3Dにより描いた。赤い線が見通し線で、山頂はそれより下に位置するのだ。
檜原神社から三輪山山頂は冬至の日の出方向に無い
二番目の問題は方位である。山宮と里宮について調べると誰でもすぐに気が付くことだが、 不思議なことに山宮と里宮の位置関係は冬至の日の出方向や冬至の日の入方向にしばしば重なる。 たとえば三輪山の山頂から大神神社の方位は冬至の日の入方向に合致する。 これは太陽信仰の一種で、衰え行く太陽の復活を冬至に祈るくらいの考え方でひとまずは納得できる。
基本的に似たような考え方を根底に含むとみて間違いないと私も思う。 実に多くの神社が同様の方位関係で並んでいることを考えれば 中世から近世の神楽を持ち出すまでもなく、この解釈を荒唐無稽と思う民俗学者はそんなにいないだろう。
しかしそれだけに、檜原神社が納得しがたい。大神神社と同じ三ツ鳥居を持っていながら、 こちらは三輪山山頂と結んだ方位は冬至の日の出・日の入からかなり外れるのだ。 それを例外の1つとオミットすることもできるが、何故だろう?と考えるのも悪くない。 これが2つ目の問題だ。
可視マップを描いてみると
3つ目の問題を共有する前に、まずはこれら2つの問題を片づけたい。 見通し線だけでは議論が難しいので、今回は大神神社からの可視マップを描いてみた。 さらに同じ三ツ鳥居を持つ檜原神社についての可視マップも描いてみた。#f00
ここで水色の線は両社からの冬至の日の出・日の入方位の延長線である。#f01 赤縦線で塗られたエリアが大神神社から見える範囲、 赤横線で塗られたエリアが檜原神社から見える範囲、 赤で塗りつぶされたエリアは両社から見える範囲である。#f02 青いエリアが現在の禁足地の範囲である。#f03 白色のエリアが磐座の分布範囲である。#f04 黄色の線が現在の登拝路などである。
大神神社からの可視範囲は登拝路がY字に合流する標高440メートル強までを限界とし、 以東は山頂を含め見通せないことがわかる。この状況は 是澤紀子(2014) の論ずるところの
ここに「禁足」が制定された範囲にもとづく領域は、三輪山を遥拝する拝殿及び三ツ鳥居の後方という 位置づけよりも、むしろその前面に山を遥拝する施設があるという位置づけが見受けられるのである。
という認識と符合する。
つまり、一言でいうと、大神神社は三輪山の山頂を遥拝しているわけではない。 勿論現代の我々が、視線を遮るその先に山頂を考えていることや、 見通し線の接するあたりを山頂と考えていることは、十分にありうるし、 信仰上は更にシンプルで三輪山そのものを仰ぎ見ていると考えれば、通常は事足りるだろう。 しかし地理情報を考察するうえでは山頂を注視して遥拝しているわけではないという点は重要である。
じゃぁ三輪山の何を注視しているのか?
まず、GIS的には現代の禁足地を遥拝しているわけではないことは言い切ってよいだろう。 なにしろ、青いエリアと赤縦線のエリアは殆ど重なっていないのだから。
では何を注視しているのか?となるとこれが難しい。 旧来の考え方に従う限り、注視する先があるとすれば「それは赤い縦線エリアのどこかだろう」 ということまでしか言えない。 幾つかの磐座はその注視点の候補になるかもしれないが、それを裏付ける証拠や仮説はあまり聴かない。
そもそも何かを注視しているのか?という前提からして話がかみ合わない恐れがある。
神社狼煙台説を利用すると?
しかしこのページでは、敢えてこの問題に挑もうと思う。 使うツールは高地性集落が狼煙台であるとする説である。 弥生時代の遺跡には人が住むに適さない高地から少人数の住居跡がしばしば見つかっている。 それを高地性集落といい、コンピュータによる計算は、高地性集落同士の距離や 近隣の集落からの距離を踏まえると、それが狼煙ネットワークと監視台であろうという。#f08
ただし、今回使うツールはその発展形「神社狼煙台説」である。 こちらは全くの無名だが、高地性集落=狼煙台説をベースに造られた比較的新しい仮説である。
すなわち、高地性集落が狼煙台であるならば、 麓の集落からは24時間体制でこれを監視する必要があり、 その行為が宗教儀礼化したものが御神体山の遥拝と考える説である。#f05
その場合、狼煙台は必ずしも山頂にある必要はなく、見晴らしが良いことが寧ろ優先されることから 御神体山の遥拝は本源的に見るとその山頂でなくても構わない、となる。
ここに1つ目の問題、山頂で無ければ何を注視していたか、に答えが与えらる。すなわち狼煙台か?
檜原神社は何を遥拝していたか?
大神神社と檜原神社の起源が同一の時代に同一の目的で存在した証拠はない。 従って、これはあくまでも可能性の提案に過ぎないのだが、 もし両社の起源が同時期に存在していたとしたらどうか? そして神社狼煙台説を採用したらどうか?
この場合、両社の遥拝する狼煙台は赤縦線と赤横線の重なるところ。 すなわち赤く塗りつぶされた範囲内のどこか、という可能性が濃厚となる。
その時、興味深いことに気が付く。 赤く塗りつぶされた範囲は、ほぼ磐座群に内包され、しかも檜原神社から見て冬至の日の出方向にあたるのだ。
狼煙台はどこにあったか?
仮説と仮定の上に立つ議論は危うい。従って、これは強く主張すべき種類のものではない。 古代ロマンの一種として聞いていただければ恰度よい。
恐らく狼煙台は標高300~400メートル付近の、赤く塗りつぶした範囲のどこかにあったのだろう。 それも、水色の線が交差するあたりに。ひょっとしたら焼土抗が検出されるかもしれない。
ただし、この考え方には「なぜ狼煙台を冬至の日の出・日の入方向に監視しなくてはならないのか」という 重大な問題が含まれる。太陽に幻惑されない東西方向の限界がおおよそ冬至の日の出・日の入方向という 作業仮説を拙論では提出しているが、果たしてどこまで耐えられるか唱える自分ですら疑わしく思う。
高地性集落が山宮になるとしても、里宮となる麓の監視場からの方位は、 実はあまり太陽方位とは関係ないのかもしれない。 それが宗教儀礼化する過程で太陽信仰と習合し、冬至の日の出・日の入方向に整理された、 と考えたほうが寧ろ無難かもしれない。
その場合、麓の随所からよく見える狼煙台がまず設けられ、その後、 これを冬至の日の出・日の入方向に遥拝可能な位置に「山宮」と「里宮」が調整された、 と考えることが可能だろう。
どちらにせよ、大神神社から三輪山山頂が見えない問題も、 檜原神社から三輪山山頂が冬至の日の出方向にない問題も、 神社狼煙台説により一定の合理的解釈が可能になる事は(賛否如何は別として)認めてよいと思う。
そもそもなぜ磐座群が出現するのか?
神社狼煙台説に目を向けてくだされば、なぜ磐座群が図の白い範囲に分布するかも見えてくる。
私は分布状況を具に実見したわけではないが、地質図を片手に山頂付近を登拝した際の感想としては 三輪山の磐座群は基本的に表土が流出し、 花崗岩や斑レイ岩が露出したものと見て差し支えないのではないかと考えている。 つまり人工的に掘り出したり、遠隔地から運んだり、位置を調整したりは無いと考えている。 撮影は禁止されている為お見せできないのが残念だが、近隣の磐座同士が本来接合したであろうことは 断面形状から推測は可能で、地学を学んだ者ならば深成岩の風化が頭の中に逆再生で想像できるはずだ。 つまり基本的には、敬虔なる信者が運んだり並べたりしたわけではないだろう、ということである。
しかしそれでもなお疑問が残るのはその分布である。 次の図は地理院タイルの傾斜量図とその区分図である。斜度が30度を超える所を5度ごとに着彩している。 赤い枠内が先の図の範囲にあたり、白が磐座群である。#f04
まず気が付く点は、磐座群の傾斜量がことさら大きいというわけではないということ。 特にオーカミ谷の傾斜量はむしろ緩やかである。 急斜面に崖が覗いているというわけではないのだろう。#f06
そして次に注目してほしいのは 大神神社から三輪山山頂方向に延びる「禁足地裏磐座群」と 檜原神社から三輪山山頂方向に延びる「オーカミ谷磐座群」は どちらの分布域も水色の冬至の日の出・日の入方向と凡そ一致している点である。
勿論、磐座群と称されるべきものが三輪山にはこれら以外に無いとは言い切れないとは思うし、 この図を描いた人に何らかのバイアスがあった可能性は一々否定することは出来ない。 しかし与えられたデータが正しいという前提で見る限り、 「オーカミ谷磐座群」が水色の線に近いという事実は偶然以上の合理的説明が期待されよう。 これが3番目の問題である。
そのとき注目されるべきは 是澤紀子(2014) の
近代以降の植生調査によると、三輪山の主要林は春日山原生林のような林相ではなく、 数百年内外の第二次的なアカマツ林であることを指摘しておきたい。すなわち 三輪山のアカマツ林は、植生遷移を考慮すれば、森林破壊によって樹木が伐採された後に 繁茂した第二次林である可能性もうかがえるのである。
という点である。もし、森林破壊による表土の流出があるならば、#f09 基盤を為す花崗岩・斑レイ岩が露出することは言うまでもなく、 広範囲に磐座群として認識されるのも不自然ではない。
では、なぜ、その分布が冬至の日の出・日の入方向と凡そ一致しているのか? それは狼煙台の監視や山宮の遥拝が捗るように伐採を継続したという、人工的な思惑があったと考えることも 合理的な説明の一つとして提案は許されるのではないだろうか?
逆に、それ以外の解釈がありうるならば、是非ご披露願いたいものである。#f07
まとめ
三輪山には
- 大神神社から三輪山山頂は見えないのに、なぜそれを拝んでいたのか?
- 檜原神社から三輪山山頂は冬至の日の出方向に無いのに、なぜそれを拝んでいたのか?
- 両社から三輪山に向かって伸びる磐座群はなぜ冬至の日の出・日の入方向に凡そ分布するのか?
という3つの問題があるが、 これらは神社狼煙台説に基づくと、檜原神社と大神神社の双方から可視の標高300~400メートル付近に 狼煙台があったと考えることで説明可能である。
メモ
- 可視マップ
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カシミール3D、Ver.9.3.7 による。標高データはスーパー地形データ。
- 冬至の日の出・日の入方位
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日の出や日の入の方角は日々変化するが、その南限が冬至の日の出・日の入の方角である。 あるいは太陽が空の低い位置に存在しい東西の限界が冬至の日の出・日の入の方角ともいえる。 向きを逆にすれば夏至の日の出・日の入の方角ともいえる。
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その方位角は観測地の緯度に依存し、歴史時代の年月に殆ど依存しない。 厳密には天体間の引力を主要因とした 黄道傾斜角 の変化も方位角に影響を与えるが、傾斜角の変化は4万1000年周期で22.1度~24.5度と小さく、 現代からさかのぼること2000年程度では冬至の日没方位の違いは現代と比べて1度にも満たない。 山の仰角によっては地形の効果がむしろ大きく、山のどこに日が沈むかといった精密な議論を行うためには 最低でもカシミール3Dのようなコンピュータソフトを使う必要がある。
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今回の水色の線はおおよその方位として、地形の効果や黄道傾斜角の変化を無視したものである。
- 見える範囲
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今回は各神社の位置で、地表から高さ3mに在る点が見える範囲として計算した。計算オプションは ヒュベニの式を使い、全ての点を計算し、球面上で視線をトレースとした。 気差を含んだ地球半径の倍数は1.156倍とし、計算精度は「高速」とした。
- 現在の禁則地
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是澤紀子(2014)「近世初期三輪山における禁足の制定とその景観」『日本建築学会計画系論文集』79(700),pp1433-1439 の図1 を基に描いた。地名もこの論文の図1による。
- 磐座の分布範囲
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奈良県立橿原考古学研究所(1984)『大神神社境内地発掘調査報告書』大神神社、p.38-39 を基に描いた。北側は「オーカミ谷磐座群」、南側は「禁則地裏磐座群」とある。
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山頂不付近はもとから図が欠けているが、山頂付近にも磐座があることは登拝により確認できる。
- 高地性集落狼煙台説
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たとえば
- 都出比呂志(1986)「古墳時代への転換と高地性集落」『東アジアの古代文化』(46),pp.15-27
- 加藤常員・小澤一雅(2006)「可視判定による弥生集落遺跡分布の一考察」『情報処理学会研究報告』2006-CH-69,pp49-56
など。
- 神社狼煙台説
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詳細は樋田竜男(2019)「神社(山宮)と高地性集落の同一性:狼煙監視の視点から」『日本民俗学会第71回年会:研究発表要旨集』p.101 を参照のこと。 神社の一部について、その起源が狼煙監視施設と考える。 ただしこの拙論は現時点では仮説にすぎず、各方面から検討されたものではない。 たとえば禁足地に関する資料が弥生時代までさかのぼる例は当然ながら皆無であり、 個別の伝承を軸に論ずるにしても、どこまで史料批判に耐えられるかわからない。 そういう考え方もある、という程度に捉えるのが安全だとおもう。
- 急斜面に崖
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通常、30度を超える傾斜が2~3mあれば、それを崖と呼ぶらしい。
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ただし、久井の岩海 のように 傾斜度が30度を越えないにも関わらず広範囲に花崗岩が集中的に分布する場所もあるため、 傾斜量が緩やかなのに磐座群があることをして不自然とは言えないと思う。
- 森林破壊
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森林破壊は近現代の特定の山の話ではない。たとえば
などを参照のこと。
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したがって、三輪山における森林破壊も当然、様々な時代でありうる話と考えて良いと思う。 残念ながら筆者が不勉強で、森林破壊の程度と表土の流出の関係についての先行研究を知らない。 そのうち筆者の知る処となったら、続編にて稿を改めることとなろう。
- 磐座と狼煙台
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今回の論調では狼煙台の便宜を図った結果、表土が流出したという臆説であり、 つまり狼煙台が磐座群を生み出したという順番で三輪山の地形を捉えているが、 拙論は必ずしもその順に固執しているわけではないことには付言したい。 たとえば、もともと磐座群とでもいうべき岩肌の露出している高所があれば、 狼煙ネットワークを邪魔する木々の伐採は最小限で済むし 対向する狼煙台からの目標物として露出する岩肌は都合が良いだろう。 この場合、磐座群が先で狼煙台が後、ということになる。 因果関係がありうるとしても、順序は事例によりけりだろう。
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なお、言うまでもないが今回の磐座は谷に沿って分布していることから、 その谷の方位がたまたま冬至の日の出・日の入方向と凡そ一致するだけの話といえばそれまでである。 それに理由があるならば、という可能性の提案をこのページはしただけであり、 その可能性を筆者が特別強く主張しているわけではないことに注意されたい。 たとえば、オーカミ谷磐座群の軸線は冬至の日の出方向ではなく、 箸墓と三輪山を結んでいるのではないか、といった着眼も筆者にはある。 しかし実際、何が正解なのかは判らない、色々と考えられるのが面白さだとおもっている。 それでもなおこのページの可能性について思う所があり、 ご自身の論文にまとめたいという専門家が万が一にも居られましたら、 高安・高見や若草山周辺などの過去の記録や黒ボク土や焼土抗の検討など、 証拠や史料を交えた新規の論攷をなさることを期待しております。